甲子園球場誕生
甲子園球場の建設は、もともと兵庫県による武庫川(県を代表する河川の一つ)の改修工事によって発生した、74万㎡の跡地を、1922(大正11)年10月、阪神電鉄が410万円で県から払い下げたことにはじまります。 当時、大阪朝日新聞社主催の全国中等学校野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会、夏の大会)は、西宮市にある鳴尾球場で開催されていましたが、観客収容人員はせいぜい5000人ほど、既にパンク状態にありました。 そこで阪神電鉄は、先に入手していた武庫川改修跡地に新しいスタジアムを建設すべく計画、専務の三崎省三は技師の野田誠三(後に阪神電鉄社長に就任)に、「ヤンキースタジアムが世界一なら、君は東洋一の野球場を造るんだ」と鼓舞奨励したそうです。 後々、”二人せいぞう”が甲子園球場を造ったと言われたのも、そうした理由からです。 敷地面積はグラウンド約19,500㎡、主要コンクリートスタンド約11,300㎡、観客収容人員6万人、総工費100万円の規模で、1924(大正13)年3月11日着工、大林組が請け負いました。 工期は4ヶ月余という短い期間で急ピッチに進められ、8月1日には盛大な竣工式となりました。この年は、ちょうど十千十二支の始まりの干支・甲子の年だったことから、球場は「甲子園」と名づけられました。 次いで8月13日から第10回全国中等学校野球大会が晴れて開幕、翌大正14年3月には、前年から愛知県の名古屋八事山本球場で開催されていた、大阪毎日新聞社主催の全国選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会、春の大会)も、会場を甲子園に移しました。 以来、甲子園球場は高校野球にメッカとして春、夏の大会は国民的行事にまでなり、今日に至っています。